どうも、TJです!(自己紹介はこちら)
今回ご紹介するのは、永松茂久さんが書かれた、「30代を無駄に生きるな」です。
本書では、人生で最も重要な時期である「30代」をどう生きるべきか、その指針となるような話がいくつも紹介されています。
今回は、その中でも私が特に感銘を受けた一節について、お話したいと思います。
後ほど詳しくお伝えしますが、私は本書の中にある「30代のうちに、一度は知覧に行け」という節を読んで、実際に時間を作って知覧まで足を運びました。
結果的に、自分の人生や物事に対する考え方が大きく変わりました。
本書は、「30代だけど、仕事や子育てに追われて自分に向き合えていない」「今後の人生を良くするために、30代で意識すべきことを知りたい」と考えている方は必見の内容となっております。
それではさっそく見ていきましょう!
人生の9割は30代で決まる
私は現在35歳、30代に突入してちょうど半分が過ぎましたが、とにかく30代は大変です。
転職や結婚、出産や育児、マイホームの購入や投資など、人生を左右する大きな決断を迫られる機会が圧倒的に多いからです。
決して大袈裟ではなく、30代をどう生きるかによって、その後の人生の9割が決まると言っても過言ではありません。
さらに、体力的な面で言っても、何か新しいことを始めたり、これまでの行動を大きく変えるだけの十分な気力や体力が残っているのも30代までです。
だからこそ、人生で一番大事な時期である30代を惰性で生きてはいけません。
「30代をどう生きるか」
その答えがまだ出ていない人にこそ、本書を強くおすすめしたいと思います。
30代のうちに、一度は知覧に行け
本書には、今後の人生の指針になるような素晴らしい話がたくさん出てくるのですが、その中でも私が特に感銘を受けた部分がありました。
それが、「30代のうちに一度は知覧に行け」という一節です。
私は、この節を読んで、実際に知覧に足を運びました。
鹿児島県にある知覧という場所は、太平洋戦争末期に特攻隊の出撃基地になった場所で、特攻の聖地と呼ばれています。
信じ難いことですが、亡くなった特攻隊員は最年少17歳、平均年齢21.6歳の若者たちでした。
永松さんは、自分よりもずっと若い年齢の彼らが出撃する直前に書いた「遺書」を目にすることで、人生観が変わると言います。
実際に私も、特攻隊員の残した膨大な数の遺書を目の当たりにして、自身の人生観に大きな影響を受けました。
興味がある方は、一部の隊員の遺書や当時の写真が掲載された「新編 知覧特別攻撃隊」がAmazonで購入できますので、ぜひ併せてご覧ください。(私も現地で購入しました)
知覧訪問の記録
知覧に着いて、まず訪れたのは「知覧特攻平和会館」です。
当日は、梅雨時とは思えない晴天に恵まれました。
建物に続く道の脇には、特攻戦死者を偲ぶように、幾つもの慰霊碑があります。
こちらは特攻隊員が出撃前の時間を過ごした宿舎です。(復元されたものです)
通称「三角宿舎」と呼ばれるこの狭い空間で、死を目前に控えた特攻隊員たちはどんなことを考えていたのか。
その心境を想像するだけで、筆舌に尽くし難い思いがこみ上げてきます。
平和会館の周囲には、幾つかの戦争遺跡が残されています。
こちらは、当時使用されていた油脂庫です。
近づいてみると、アメリカ軍戦闘機によるものと考えられる弾痕が至るところに残されており、戦争の凄まじさをまざまざと感じることができます。
会館内には、海底から引き揚げられた零戦の残骸も展示されています。
こちらは当時、滑走路が敷かれていた場所です。
特攻隊員たちは、この空に向かって飛び立って行きました。
彼らは、一体何を考え、どんな心境でこの景色を目にしたのでしょうか。
次に、「ホタル館富屋食堂」を訪れました。
当時、特攻隊員が母のように慕っていた鳥濱トメさんが営んでいた軍指定の食堂が、現在では特攻の資料館になっています。
こちらにも特攻隊員たちの遺書や遺品が展示されており、平和会館とはまた異なる視点で、特攻隊員について知ることができます。
館内は写真撮影が禁止されているので、ぜひ足を運んで実際にご覧になってください。
心を打たれた3名の隊員の遺書
知覧特攻平和会館とホタル館富屋食堂の館内に所狭しと並べられた遺書を読む中で、私が特に心を打たれた3名の隊員の遺書を紹介させていただきます。
生命に対する思い、残された家族に対する思い、未来の祖国に対する思いなど、それぞれの隊員が何を思い、出撃していったのかを感じ取ることができると思います。
枝幹二大尉 22歳
あんまり緑が美しい
今日これから
死にに行く事すら
忘れてしまいそうだ。
真青な空
ぽかんと浮ぶ白い雲
六月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に小鳥の声がたのしそう
「新編 知覧特別攻撃隊 P.107-108」より引用
「俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
本日一三時三五分
いよいよ知ランを離陸する
枝幹二大尉は富山県出身、第一六五振武隊の一員として昭和20年6月6日に出撃し、戦死しました。
多くの隊員が、とにかく潔く勇ましい内容の遺書を遺している中で、枝幹二大尉の遺書からは、どこか「素直さ」や「やさしさ」を感じ、深く印象に残りました。
その詩的な表現の素晴らしさも去ることながら、この遺書を読むことで、当時の枝大尉の心境を鮮明に想像することができます。
また、いつも何気なく目にする空や雲、草や木、鳥や虫などの自然は、本当に素晴らしく、かけがえのない奇跡的なものなのだと改めて感じさせられました。
決して、「当たり前」などというものは存在しない。
枝大尉の遺書は、私に大切なことを教えてくれました。
久野正信中佐 29歳
正憲、紀代子へ
「新編 知覧特別攻撃隊 P.95」より引用
父ハスガタコソミエザルモイツデモオマエタチヲ見テイル。
ヨクオカアサンノイイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシテオオキクナッタナレバ、ヂブンノスキナミチニススミ、リッパナニッポンジンニナルコトデス。ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。
「マサノリ」「キヨコ」ノオトウサンハカミサマニナッテ、フタリヲジット見テイマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。
オトウサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケレドモ、フタリナカヨクシナサイヨ。オトウサンハオオキナジュウバクニノッテ、テキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニナッテ、オトウサンノカタキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
久野正信中佐は愛知県出身、第三独立飛行隊の一員として昭和20年5月24日に出撃し、戦死しました。
ご覧の通り、久野中佐の遺書は、残された2人のお子さんに対して書かれたものです。
小さい子でも読めるようにカタカナで書いている優しさや、もう子供たちと戯れることができないことに対する寂しさを垣間見ることができ、子を持つ親である私自身、心を打たれました。
それと同時に、我が子と何気ない日々を過ごせることがいかに幸せなことであるかを再認識させられ、子供たちとのかけがえのない日常をより一層、大事にしていかねばと思います。
上原良司大尉 22歳
所感
「慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所 特攻隊員・上原良司』の誕生 —ある学徒兵を巡る資料とメディア表象—」より引用
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄之に過ぐるものなしを痛感致して居ります。
思へば長き学生時代を通じて得た信念とも申すべき理論万能の道理から考へた場合これは或は自由主義者と謂はれるかも知れませんが自由の勝利は明白な事だと思ひます。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく例へそれが抑へられて居る如く見えても,底に於ては常に闘ひつゝ,最後には必ず勝つと云ふ事は,彼のイタリヤのクローチエも云って居る如く真理であると思ひます。権力主義の国家は一時的に隆盛であらうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家に於て見る事が出来ると思ひます。ファシズムのイタリヤは如何ナチズムのドイツ亦,既に敗れ,今や権力主義国家は,土台石の壊れた建築物の如く,次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍さは今,現実に依って証明されつゝ過去に於て歴史が示した如く未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思はれます。自己の信念の正しかつた事この事は或は祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。現在の如何なる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思ふ次第です。既に思想に依って,その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして嘗ての大英帝国の如き大帝国たらしめんとする私の野望は遂に空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら日本は現在の如き状態に或は追ひ込まれなかったと思ひます。世界何処に於ても肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が云った事は確かです。操縦桿を採る器械,人格もなく感情もなく勿論理性もなく,只敵の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性を以て考へたなら実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云ふ如く自殺者とでも云ひませうか,精神の国,日本に於てのみ見られる事だと思ひます。一器械である吾人は何も云ふ権利もありませんが唯,願はくば愛する日本を偉大ならしめられん事を,国民の方々にお願ひするのみです。
こんな精神状態で征ったなら勿論死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べた如く特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思って居る次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど,一旦下りればやはり人間ですから,そこには感情もあり,熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時自分も一緒に精神的には死んで居りました。
天国に待ちある人,天国に於て彼女と会へると思ふと死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です。過激に亘り,勿論発表すべき事ではありませんでしたが,偽はらぬ心境は以上述べた如くです。何も系統だてず,思った儘を雑然と述べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが,心中満足で一杯です。
云ひたい事を云ひたいだけ云ひました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で
出撃の前夜記す
上原良司大尉は長野県出身、第五六振武隊の一員として昭和20年5月11日に出撃し、戦死しました。
ホタル館富屋食堂で、この「所感」と題された上原大尉の遺書を目にした私は、しばらくその場に釘付けになりました。
自身の思想と未来の祖国への思いを抱えながら、戦争という運命に翻弄される中で、上原大尉がどんなことを考えていたのか、その心境が伝わってきます。
日本が戦争に負けると確信している中で、特攻隊として出撃しなければならない。
そのどうしようもない運命に対する絶望とともに、一種の開き直りというか、最終的には全てを受け入れている潔さも感じます。
上原大尉のように、日本の将来を案じ、繁栄する祖国を夢見て、むなしくも戦争で命を落としていった若者はたくさんいると思います。
日本のために、まさに命を賭けて戦ってくれた先人たちのためにも、次世代の子や孫のためにも、現代を生きる私たち日本人は、全力を尽くして日本をより良い国にしていかなければなりません。
上原大尉の遺書を読んで、私も覚悟ができました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
今回は本書の中でも、「30代のうちに、一度は知覧に行け」という一節にフォーカスしてご紹介しました。
人間の命はね、限りがあるんだよ。
だから一生懸命、いまを大切に生きていかなきゃいけないんだよ。
「終章 30代をどう生きるか」より引用
これは、「特攻隊の母」と呼ばれた、富屋食堂の鳥濱トメさんの言葉です。
知覧に行くまでは私自身もそうでしたが、「明日が来るのが当たり前」だと思っている方が多いのではないでしょうか。
私は、戦争で若き命を落としていった特攻隊員の遺書を読む中で、決して「当たり前などない」のだと学びました。
著者の永松さんは、知覧に足を運んだことをきっかけに、毎年遺書を書いているそうですが、「死」を意識することで、「生」の有り難さをより深く感じることができるのだと思います。
素晴らしい時代に生かされているということに感謝して、一生懸命、いまを大切に生きていきましょう。
また、知覧特攻隊をテーマにした映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」もとてもおすすめなので、ぜひ併せてご覧ください。(私はこの映画を見てから知覧に行きました)
ぜひ、皆さんも知覧に足を運んでみてください。
人生変わります。
ではまた!